みなさんは「小泉八雲」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?実は八雲さんは生まれも育ちも日本ではありませんでした。
アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれた、いわゆる「ハーフ」。故郷を持たず、異国を転々としながら生きてきた八雲さんが、なぜはるか遠い島国・日本に魅了され、日本人と結婚し、そして今も読み継がれる美しい「怪談」を書き残したのでしょうか?
今回は、そんな八雲さんの波乱に満ちた人生と、彼はなぜ日本に惹かれ、怪談を書いたのか?そんなテーマでお届けします。是非最後までご覧ください
小泉八雲はハーフだった?
小泉八雲はハーフだった?
小泉八雲さんのもともとの名前は「パトリック・ラフカディオ・ハーン」といって、生まれはギリシャのレフカダ島というところです。
- お父さんは、イギリス軍のお医者さん(アイルランド系イギリス人)。
- お母さんは、ギリシャ出身。
つまり、八雲さんはアイルランドとギリシャのミックスとして生まれました。
小さい頃に両親が離婚したりして、アイルランドでおばさんに育てられた後、アメリカに渡って新聞記者として働きました。そして、1890年(明治23年)に来日して、日本の文化や怪談にどっぷりハマります。
最終的には日本人女性の小泉セツさんと結婚して、日本に帰化(日本人になること)して「小泉八雲」と名乗りました。
色々な国を転々として、いくつもの文化に触れてきたからこそ、日本人には気づけないような日本の魅力をたくさん見つけられたのかもしれません。
小泉八雲の経歴
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の主要な経歴を表形式でまとめました。
| 年代(西暦) | 年齢 | 出来事 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| 1850年 | 0歳 | 誕生 | ギリシャ・レフカダ島で生まれる。 |
| 1852年 | 2歳頃 | 移住(アイルランド) | 家族でアイルランドのダブリンに移住。 |
| 1869年 | 19歳頃 | 移住(イギリス) | ロンドンで貧しい生活を送る。 |
| 1874年 | 24歳頃 | 移住(アメリカ) | アメリカ・シンシナティに移住し、新聞記者として働く。 |
| 1877年 | 27歳頃 | ニューオーリンズへ | ニューオーリンズに移り、記者・編集者として活躍。 |
| 1887年 | 37歳頃 | 西インド諸島へ | 雑誌の特派員としてカリブ海周辺を取材。 |
| 1889年 | 39歳頃 | ニューヨークへ | ニューヨークで執筆活動を行う。 |
| 1890年 | 40歳 | 来日 | 雑誌特派員として日本へ。すぐに日本の魅力に惹かれる。 |
| 1890年 | 40歳 | 教師に就任 | 島根県松江市で英語教師(島根県尋常師範学校・松江中学校)となる。 |
| 1891年 | 41歳 | 結婚 | 日本人の小泉セツと結婚。 |
| 1894年 | 44歳頃 | 神戸へ移動 | 神戸の英字新聞社で編集者として働く傍ら、執筆に専念。 |
| 1896年 | 46歳 | 帰化 | 日本国籍を取得し、「小泉八雲」と名乗る。東京帝国大学の講師に就任。 |
| 1903年 | 53歳 | 早稲田大学へ | 早稲田大学の講師となる。 |
| 1904年 | 54歳 | 死去 | 心臓病のため東京の自宅で死去。雑司ヶ谷霊園に埋葬される。 |
| 主な著作 | – | 怪談など | 『知られぬ日本の面影』『怪談』『日本瞥見記』など |
八雲はなぜ日本に惹かれ、怪談を書いたのか
八雲はなぜ日本に惹かれ、怪談を書いたのか
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)さんが日本に惹かれ、怪談を書いた背景には、八雲さんの生い立ちや経験、そして当時の日本の文化的背景が深く関わっています。八雲さんにとって、日本は心の安住の地であり、怪談は彼が深く愛した日本の魂を後世に残すための芸術表現でした。
小泉八雲が日本に惹かれた理由
- 豊かな文化の理解: 八雲さんは小さい頃の経験からキリスト教的世界観とは異なる、多様で豊かな文化や民間信仰に心を惹かれていました。アメリカ南部やカリブ海のマルティニーク島での生活を通して、社会的に弱い立場の人々や、おおらかな文化への共感を持っていました。
- 「古き日本」の魅力: 明治時代の日本は急速に西洋化を進めていましたが、八雲さんが求めたのは、まだ近代化の波にのまれていない、素朴で無邪気な人の心や、先祖代々受け継がれてきた神仏の教えが息づく「古き良き日本」の姿でした。
- 精神文化への共感: 日本の神話や神道、そして目に見えない存在(神々や霊)と共に生きる日本人の精神文化に強い関心と共感を持ちました。これは、八雲さんにとって本来の自分を取り戻す作業でもあったといわれています
- 運命的な出会い: 1890年に日本にやって来て、松江で英語教師として働いたことが運命の出会いとなりました。そこで武家の娘・小泉セツさんと結婚し、彼女から日本の昔話や伝説、幽霊話を聞くことで、日本の文化や生活により深く触れていくことになりました。
八雲が怪談を書いた理由
- 日本文化の紹介: 八雲さんは、西洋の人に向けて、日本の豊かな精神文化や、失われつつある古き良き伝統、日本人の心の美徳を紹介したいという強い思いを持っていました
- 再話文学としての創作: 妻のセツさんから聞いた話や日本各地に伝わる伝承を、単なる記録ではなく、自身の解釈や文学的な表現を加えて新たな「再話文学」として創作しました。
※再話文学とは分かりやすく、あるいは文学的な装飾を加えて書き直した作品のことです - 普遍的なテーマ:八雲さんの怪談は、単なる怖い話ではなく、人間ドラマや、情け、信義、親子の愛情といった普遍的なテーマを描いており、国境を越えて人々の心に響くものでした。
- 自身の感性との融合: 八雲さんが持っていた目に見えない思いが、日本の怪談という題材と結びつき、独自の文学世界を生み出しました。
小泉八雲が残したもの
小泉八雲さんが日本に残してくれたものは、一言で言うと「西洋と東洋をつなぐ心の橋」です。
八雲さんが残してくれた主な功績は、
- 日本の魅力を世界に発信!
- 明治時代の日本人が忘れかけていた「古き良き日本」の風景、文化、精神性を、美しい文章で世界に紹介しました。八雲さんの本を読んで日本に憧れた外国人は多いらしいです。
- 「怪談」を文学作品へ
- 妻のセツさんから聞いた話や、日本各地の伝承を元に、単なる怖い話ではなく、日本人の情けや倫理観、哀愁が漂う文学作品に仕上げました。八雲さんの『怪談』は今でも世界中で読まれています。
- 日本の英語教育・文化研究の礎を作った
- 松江や熊本、東京帝国大学で英語教師として教壇に立ち、多くの日本人学生に影響を与えました。彼の教え子たちの中には、後に著名な学者や作家になった人もたくさんいます。
- 深い日本への愛と理解
- 最終的に日本に帰化し、日本人として生涯を終えた八雲さんの生き様そのものが、異文化を心から理解し、愛すること素晴らしさを伝えてくれました。
このように、八雲はさんは「日本って本当にユニークで素晴らしい国なんだよ!」ということを、国内外に向けて教えてくれた、特別な存在でした。
まとめ
今回は「小泉八雲のルーツはハーフ?八雲はなぜ日本に惹かれ、怪談を書いたのか」のテーマでお届けしました。
小泉八雲さんは、アイルランド人の父とギリシャ人の母を持つ、正真正銘の「ハーフ」として生まれました。
幼い頃から故郷を持たず、ヨーロッパ、アメリカ、西インド諸島と転々としながら育った彼は、常に異国の文化や社会の片隅にいる人々に心を寄せ続けました。
そんな八雲さんにとって、妻の小泉セツさんから聞いた日本の昔話や幽霊話は、世界に誇るべき美しい「怪談」という文学作品へと展開されました。
八雲さんが私たちに残してくれたのは、単なる怖い話ではなく、異なる文化を心から愛し、理解しようとする、深い愛情と探求心だったのです。
最後までご覧下さりありがとうございました。
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